英語教育

文科省により、2013年度から高校の英語授業を英語でする指導案が出された。

私は小学校からの英語教育には反対だが、今回のこの案には大賛成だ。
すべての高校教師にその能力があるならば、という条件つきだが・・・。
(「自信なし」とアンケートに答えている教師がけっこういるらしいが、そりゃそうだろうな)
ともあれ、これはあとまだ数年猶予があるので個々人で努力精進してもらい、文科省はスタートする前にある程度の能力査定をすべきだろう。

政府が、そして国民が、「英語教育は必要なし」と思うならすっぱりやめて他教科に力を入れればよいが、そうでなくて「やはり必要だ」と思うなら、『英語を使える』ようにしてあげなくてはならない。
事実、これまでの英語教育を受けてきた人間がまったく英語を使えないのだから、これまでの英語教育が間違いで時間の無駄使いであったことは自明である。
さすればこれくらいの抜本的な措置がとられるのは当然であり、遅すぎるくらいだと思う。

他言語を習得するには「必要に迫られる」状態に身を置くことが肝要だ。
授業で英語しか使ってはいけないなら、生徒が教師に質問する際にも英語で質問しなければならず、またちょっとした意見や身の回りで起きた出来事を説明するのだって英語で、ということになる。
そうするうちに自然に単語やイディオムを覚えるようになるし、簡単な文章の組み立て方も身につくだろう。
そして教師の講義を聞く際、最初はちんぷんかんぷんでも、「何を言っているか」を想像しながらなんとか解ろうとすることを続ければ、徐々に勘が働くようになる。

ちなみに私がイタリア語を学習しこれを短期間で習得することができたのも、イタリアの語学学校でイタリア語のみの授業を受けたからであると断言できる。

「必死になる」
「間違いを恐れず積極的に発言する」
「学習することの必要性を痛感する」

これらは語学習得に必要不可欠な要素で、教師がうまく啓蒙、指導していかなくてはならない。

思えば、明治時代の日本人は高い語学力を有していたが、それは欧米に倣った近代化のため、ひとりひとりがまさに「必死で」「積極的に」「必要に迫られて」学習した結果であろう。
現代のほうが、よりシステマティックで洗練された教授法や辞書、参考書なりが存在するのにもかかわらず、その実力は明治の人々とは比べようもないほど低い。
それはなぜか。
やはり「目的意識」と「学習姿勢」の差に答えがあるのではないだろうか。

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悲しい聖夜

クリスマス・イブに18才の娘が父親を刺し殺したという事件が沖縄であった。

両親は離婚しており、この18才の長女と12才の妹は父親と共に暮らしていた。クリスマス・イブは久しぶりに母親宅で楽しく過ごし、気が付けば深夜に。父親から電話があり、これだけ遅くなったのだから母親のところに泊るようにと言われたが、だからといって本当に泊れば父親の機嫌はさらに悪くなろうと気遣った姉妹は母親に送られて帰宅した。父親は玄関に鍵とチェーンをかけており、だが姉妹はなんとかして家の中に入ることができた。家には父親とその知人の女性がいたが、帰宅した姉妹に『なぜ泊るように言ったのに帰ってきた』と父親は怒り、対する長女は洗い物をしながら『なぜドアにチェーンをかけたのか』とはむかい、二人は言い争いになったという。父親は鍋をつかみ殴りかかろうとし、さらに激昂し包丁を振りかざした。長女はとっさに側にあった包丁をつかみ、父親の胸など数箇所を刺し、死に至らしめたということだった。調べに対して長女は『殺すつもりはなかった』と言っているという。

胸の痛む事件である。

そもそも、両親の離婚の原因は父親の暴力に因するという。父親は無職で生活保護を受けており、祖父の言によると、刃物を携え金をせびりに来ることもしばしばであったとか。

そんな家庭環境で、姉妹も暴力を受けていたか、そうでなくても常に父親の顔色をうかがい恐怖する日々であっただろうと想像できる。
だいたい、クリスマス・イブに母親宅から帰り、すぐに父親たちが汚した食器を洗うというこの長女はしっかり者だろう。恐らくはいつも母の代わりに家事全般を一手に引き受け、妹の面倒をみ、妹を庇い守りながらこの数年を過ごしてきたのではないか。

そこで世間は楽しいクリスマス・イブである。
こういうとき、人間の心には魔物が生まれる。

いくら不景気とはいえ、やれプレゼントがどうしただの家族で外食だの、友人知人の話やメディアからはいる情報はやはり羨ましく、自分をとりまく環境がいかにも惨めで恥ずかしく感じてしまっただろう。
自分の希望を殺し、我慢することに慣れたとはいえ、そこはまだ18才だ。イライラが頂点に達したとしても不思議ではない。

母親宅でささやかながら心安らかなひとときを楽んでいたのに、なんの因果か自由に泊ることも許されず帰りたくもない家に帰る。帰ったら帰ったで粗暴な父親から叱責される。
こんなとき、みじめで出口の見えない苦境から自分なりの方法でなんとか脱出しようとした少女のやけっぱちの行動を私は責めることができない。

最初は身を守るために、いつまでも無力でないことを見せ付けるためだけに握った刃物であろうが、それを生身の人間相手、それも父親相手にふるおうと思うと、やはりそこには相手を亡き者にしてしまわなければならないという「意志」が必要になるだろう。
咄嗟のことであるし、恐らくは無意識にこの「意志」が働いたのだろうが。

もちろん、間違った方法である。
しかし、彼女のまわりには常に暴力があったのだ。
そんな少女が暴力に暴力で対抗しようとしたことは、他の方法が思いつかないくらい追い詰められていたであろうことも想像するにつけ、やはり必然であったのではなかろうか。

未成年であることだし、恐らくは正当防衛が成立し無罪となるだろう。
しかし、父親殺しの過去は少女を生涯苦しめる。

ありったけの勇気をふりしぼってことを収束させようと、ただひとりで立ち向かった少女に罪があろうはずがない。
結果的に、18才の細い肩にその重荷を背負わせてしまった周りの大人たちこそ、これから粉骨砕身して姉妹を守ることで罪を贖ってほしい。

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宗教的アイデンティティーの欠如

我が家は真言宗だが、日本のほかの多くの家庭と同じように神道でもある。
だから実家の座敷には仏壇があり、庭には小さな祠があるのだ。

お葬式は仏式で。またお盆にはお料具を整えお寺さんを呼び先祖を祭る。
そしてお正月には神棚に手を合わたのち神社にお参りに行く。
さらに母方の祖母の家に遊びに行くと、そちらは神道一辺倒なので、毎朝、きっちり神棚にお神酒やお榊を供え「祝詞」をあげていた。

また一方、父方の祖母がクリスチャンだったので、子供のころは毎日曜日、祖母に連れられ教会に通い「主の祈り」を唱えており、クリスマスもこれまた家族で聖書を読み、賛美歌まで歌ってたように記憶している。

もうひとつ白状すると、父が私たち三姉妹に説教する際には、漢籍を引用することも多かったので、精神的には道教や儒教にも影響されているといえる。

このように、子供のころからなんとも複雑で、悪く言えば節操のない宗教的教育を受けていたため、いまだに「信心」というものが固まらず、私個人としては結局のところ無宗教だ。
だからあらゆる宗教的な年中行事に参加するのは信仰心がそうさせるのではなく、むしろ義務感からこれらをなしているという色合いが濃い。

『こんなことでよいのだろうか』と思うこともあるが、もし宗教を哲学ととらえるなら、私はそれぞれの持つ教義から多くの大切なことを学んだし、救われたこともある。
そういう意味では、アイデンティティーこそ定まってはいないが、やはり私も宗教のお世話になっているひとりだと言えるのではないか。ありがたいことである。

さらに、このカメレオン的な宗教観はTPOにあわせてそれなりの行動、言動をとることを助く。

例えば、姉は結婚して間もないころ、旦那の実家に泊った翌朝、義父母の前で幼少のころに覚えた祝詞を一発かまして株を上げていた。

実をいうと私も、クリスマス時期にイタリア人の家庭にお呼ばれしたらいつも『いまから日本語版のパードレノストロ(主の祈り)をやります!』とこれまた子供の時分に習い覚えたあの「天にまします我らが父よ」をかますことにしている。
必ず『おお〜!』と驚かれ、拍手喝采を浴びる。

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麻生総理

数週間遅れで手に入る日経新聞やネットからしか情報を得ることができない環境なのだが、就任してまだ間もないこの総理に関してポジティブな話は未聞である。

それではネガティブな話題とは何かというと、まず漢字の読み間違いが挙げられるだろう。
そもそも、どんな字が読めなかったのかと調べてみると、「踏襲」「頻繁」「未曾有」などが例示されていた。
「未曾有」はどうか分からないが、「踏襲」も「頻繁」も中学校で習う漢字である。
まあ、誰にでも間違いというものはあるし、何千という漢字をすべて正確に読むことができる人の方が珍しいとも思う。
しかし、上記の言葉は政治家ならそれこそ「頻繁に」耳にするであろうと想像できるのだが、それが読めない、もしくは勘違いして覚えてそのままになっていたというのは一体どうしたことだろう。
恐らくこの人は、不確実であると思われる自分の知識を確実にするひと手間(辞書で調べるとか)をしない人なのではないか。そうだとすれば「横着」の誹りを免れない。
また間違うことをさほど恥ずかしいことだと思っていないのかもしれない。
確かに、「そんなことどうだっていい」「些事である」という考えの人もいるだろうが、だからといって、その自分だけの主張を通してそれを認めろというのは、わがままで不遜だと思う。
一国の総理として、というよりも、一人の大人としてどうかと思う。
一度間違いを犯してそれが問題になったのなら、次回からは謙虚に振り仮名を打つなり、なんらかの対策を講じるべきだと思う。なんとなく情けないけれど。

同じように、不適切と思われる発言も一向に改善されないようだ。
医療保険に関しては「ダラダラとなんの努力も摂生もしていない人に対して国が医療費を負担するのは腹立たしい」といったようなことを公の場でぶったらしいが、私はこれを聞いて『ああやっぱりこの人はファシストだな』と思ったものだ。

しかし、またその後、例の定額給付金について高額所得者がそれを受領するかどうかについては「たくさん稼いでいる人までもが受け取ろうとするのはさもしく、矜持に欠ける」とも発言したらしい。
だいたい、高額所得者はそれだけ高額の税金を納めており、それだけでも国のためになっていると思うのだが、その人たちが雀の涙ほどの給付金(実質は還付金であろう)を手にしようとすると、それが「さもしい行い」であると言われるなら、これはたまったものではないだろう。

自らの政策の瑕疵を棚にあげて、何の罪もない国民を先に貶めるというのは、居直りも甚だしく、卑怯で、想像力や思いやりに欠ける行いだと思う。
そういえば、医師不足に関しても「医者は常識に欠けるから」その原因は医師会にあると豪語していたな。
これも先に相手を貶める作戦である。責任回避の方法としてはあられもないほどずうずうしく、そしていやらしいほど攻撃的だ。

右よりの発言があったかと思うと都合の悪いときだけ左よりに傾く、その節操のなさや理路の不在は理解しがたいものだが、要するに、な〜んにも考えてないのだろう。

国を牽引することは当然ながら子供の遊びではない。
人心は暗く、教育も経済も危機的な状況であるこのときに、こんなとっちゃんぼうやみたいな人がまともな政治を行えるのか、私は悲観している。

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バスの運転手さん

時刻表というものが存在しないローマのバスは「いつくるかわからない」のが身上(運がよければ5分と待たずに乗ることができるが、来ないときは30分以上待つなんてことも珍しくない)なので、急ぎの用事があるときは比較的予測のたつ電車や地下鉄を利用するものの、やっぱり私はできるだけバスを利用することにしている。

お外の景色が眺められること、上手に乗り継げばまったく歩くことなく目的地に着けることなど、バスを好む理由はいろいろあるが、なにより私を惹きつけてやまないのはイタリア人の、特にバスの運転手さんの生態を観察できるという点である。

日本では考えられないような色彩豊かな運転手さんたちの言動、行動を生で見聞きできるのはなかなか楽しいものだ。

彼らの運転は一様に「荒い」ので、慣れた今でもたまに酔ってしまう。
酔うだけならまだよいが、この間などは誰かと衝突しそうになったのか、いきなり急ブレーキを踏まれ、向かいに座っていたおばさんが私のひざの上に降ってきた。
そのおばさんだけでなく、かなりの乗客がこの驚天動地の急ブレーキにより空を舞うことになったのだが、当の運転手さんはそんなことはおかまいなし。
侘びの言葉もなく、道路の真ん中にバスを止めて、なにやらわめきながら相手の車の運転手と喧嘩をしに行ってしまった。
しばらくしてバスに戻ってきた運転手さんは、ブーブーいいながら待っている乗客を見て一言、「あんたらまだおったんか。」と言いおった。
さも、すぐにバスを降りて他の移動手段を講じなかった私たち乗客の不見識を責めるかのように。

夏の暑い日、停留所でもなんでもない路肩にバスを止め、空のペットボトルを片手に水を汲みに行った運転手さんを目撃したこともある。
暑くて喉が渇くのはまあ分かるけれど、ううむ・・・。

他にも、運転しながら新聞を読む、運転しながら私的な電話で長々と盛り上がる、運転しながら好みの女をナンパするなどというのは、だいたい8割がたの運転手さんが至極日常的にすることなので、もはや驚かない。
むしろ、そんな運転で事故を起こしたり道を間違えたりしないこと、そして乗客も一切文句を言わないことの方こそ特筆すべきだろう。

ところで、昨日の夕方は大雨だったのだが、ずぶぬれになり、最低の気分でバスに乗り込んだ私はきわめつけの出来事に遭遇することができた。
このバスの運転手さんは最初から、乗ってくる客の一人ひとりに「元気?」「ひどい雨だね」などと声をかけ、「寒いところで長いこと待たせて気の毒だったね」とねぎらいの言葉までかけてくれる、大変感じの良い人だった。
そのうち、ラジオから流れてきた曲がお気に入りの一曲だったようで、曲の入りからけっこうな音量で歌いだした。
もうノリノリで、肩をゆするわ手をたたくわ・・・私は運転手さんの真横でそれを見ていたのだが、その表情はもう酔いしれており、曲がサビに入ると目をつぶり歌手の声にあわせシャウト。(もちろん運転しながら)

「すごいな〜」と思いながらも、なんとなく楽しい気分で聴いていたら、なんと私の隣に立って足でリズムをとっていた人(まあまあキレイな30代くらいの女性)が、おもむろにハモり始めた。
すると、少し離れたところに座っていたおじさんも歌いだし、最終的にバスの乗客のほぼ半数と思われる人が一緒になって歌うようになってしまった。
例の曲が終わって次の曲に切り替わってもその勢いはとまらず、車内はいつしか大合唱大会に。
途中の停留所から乗り込む客はみな驚いた顔で乗車してくるのだが、すぐに楽しい雰囲気に呑まれ一緒に歌いだすようになる。
もちろん最も大声で歌い、常にみなを先導しているのは件の運転手氏である。

ラジオから流れる曲はすべて、ほとんどのイタリア人なら口ずさむことのできるようなメジャーなものばかりだったのだろう。
しかし、私が知っている曲はなく、大合唱の渦の中心にいながらも、残念なことに共に歌うことはできなかった。
それでも、それは鬱陶しい雨を吹き飛ばすようなとても楽しいひとときだった。

終着駅に着き、ドアを開けてバスのエンジンを切った運転手氏、彼にとってもめったにないことだったのだろう、立ち上がって振り返るや、「みんな、ありがとう!」と、コンサートで客に別れの挨拶するロック歌手さながらに両手をあげ、感動の面持ちで絶叫した。
それに対して乗客もみな、口々に「こっちこそありがとう!」と笑顔で手を振って降りていくのだった。
(この話に脚色等、一切施しておりません)

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信用について

信用、この目に見えないもの。
しかし、それなしでは人間関係も商売も成立しない。

あるものを信用するかどうかの判断基準は人それぞれであるし、設けるハードルの高さもまた人それぞれだ。
ともかく、限られた情報をもとに、国家を、人を、あるいは企業とその商品を、そして何よりも手に入れた「情報そのもの」を信用してもよいかどうか、各自の「知性」、言い換えれば「見る目」を駆使して判断しなければならない。

人間、一度「信用してもよい」と判断したものに裏切られると、ショックを受けたり腹を立てたり悲しみにうち沈んだりする。
だが、「このものを信用する」と決めたのは当の本人であることをまず思い起こさなければならない。
裏切られた場合はまず、自分の「見る目のなさ」を反省し、次に同じ失敗をしないよう学習するべきだろう。
内省なくして相手を責めるだけでは、未来においてまた臍を噛むような思いを味わうことになろう。
被害者意識は私たちにいかなる福音も与えない。
同情されることはその人にとってなんの得にもならないのだ。

数年前まで信用大国であった日本。
日本は信用の化身であった。
これは言祝ぐべきことで、もちろん誇ってもよいと思う。
しかし、そのことは私たちを少々白痴化してしまったようにも思う。
私たち日本人は、赤子のように何の疑いももたず無邪気に相手を信用し、その身をあずけてしまうようになってしまったのではなかろうか。
要するにハードルが低いのである。

イタリアに来たばかりのころ、同じ語学学校に通っていた日本人の若い女の子が、ディスコで知り合ったモロッコ人の家にのこのこついて行き、彼とその仲間に輪姦されそうになった、ということがあった。
幸い、彼女は必死で逃げ帰り事なきを得たのだが、私は後日、本人からそうしたいきさつを聞かされて、呆れはしたものの、とても「かわいそうに」と同情する気にはなれなかった。
海外でそんな危険なことを平気でする彼女の頭の中身が、幼稚さが信じられなかった。
とにかく、また同じような危険な目に遭わせないためにも、年長者としてしっかり「あなたが悪い」と言い聞かせたが、ショックの覚めやらぬ彼女をただ怒らせる結果になってしまった。残念なことである。

同志の心が変節した、伴侶に浮気された、金庫番に金を使いこまれた、省庁の汚職が発覚した、一票を投じた政治家が公約を守らなかった、食品の偽装が明るみに出た、銀行が手のひらを返したように金を貸してくれなくなった、ズバリ詐欺にあった、スリにあった、殺された・・・と、こうしたことが今は日本でも日常茶飯事となっている。
非情に憂わしいことだが、これはむしろ「もっと見る目を鍛えろ」「自分の頭で考えろ」「危険を察知しろ」という、白痴化した私たちに対する警鐘であって、まだ取り返しのつかない最悪の事態には至っていない。

まだ賢くなるチャンスはある。

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バカはどこにでもいる

もう何日も前のことだが、ちょっとおかしかった出来事があったので忘れないうちに書き留めておこうと思う。

私がローマで家から中心街に行くのにいつも利用する在来線の座席は、四人席が向かい合っていて固定された形である。
一両の両端部は中二階の位置に座席が設けられており、中央部は二階建てになっていて上下階共にびっちり座席が据えられている(京阪電車の特急でそういう車両があったっけ)。
普通の車両に比べほぼ倍の座席があるのだから、かなりの割合で座ることができ、たいへん快適である。

さてある日、「ここに座れ」といわんばかりにぽっかり空いた四人席のひとつに、私は本を読みながら腰をおろしていた。するとすぐに次の駅からどやどやとたくさんの人が乗り込んできて、そのうちの三人のサラリーマンらしき男性グループが私の周りに残った三席に座った。

私のはす向かいに坐した40歳前後とおぼしきイタリア人は、集中して日本語の本を読む私をちらっと見たあと、連れの二人におのれの日本語の知識を滔々と語り始めた。
曰く、「日本語の文は縦に表記されており、右側から左へ左へと読みすすんでいく」「文字は三種類あり、中国からきた漢字と日本独自の文字二種類(ひらがな、かたかな)を規則に従って使用している」など。
ちゃんと私のことを日本人と把握し、あまつさえ本の文字も日本語であると認識したことはあっぱれであるし、話の内容も間違っていなかった。
今思えば、そういう話をしながら、果たして私がイタリア語を解すかどうかを測っていたのだろう。
しかし私はなんとなく面倒だったので、無反応を装い、本に集中しているふりをしていた。もはや彼らの話が気になって、字面を追うことはできなくなっていたのだけど。

さて、私を「イタリア語を話せない日本人」と見てとった彼は、徐々に調子を上げてきた。
どこからそういう情報を得たのか、まず日本人の男性一般がいかに男性優位主義で不細工で出っ歯か、ということについておもしろおかしく(私は苦虫を噛む思いで聞いたが)話して聞かせ、次いで、日本人女性も、ほどんどが不細工で出っ歯であると言いおった!
「ま、このシニョリーナ(私のこと)はかわいいけどさ」と言うのを忘れなかったのは、後の私の『爆発』を比較的穏やかなものにすることになったのだが。

話し手の隣、いわゆる私の向かいに座った若いのは、話がこうもディープに失礼度を増してきたのを気遣ったのか、相づちも少なくなり、チラッチラッと私の方を横目で気にして見ていた。
もう一人、私の隣に座っていたのは、どういう反応をしていたのか、これは見えていなかったのでわからない。
しかし、当の話し手氏の勢いはとどまることがなかった。

彼が「だから日本人の女は、俺らみたいなかっちょいいイタリア男に弱く、ちょっと優しくしたらころっと引っかかる」というようなことを言った時点で、私はキレた。

私が読んでるふりをしていた本をパタリと閉じて、「ちょっと言わせてもらうけど・・・」と、はす向かいの彼を見据えた瞬間、当のこの彼は自分の話に夢中で事実の認識が遅れたのだが、こちらを気遣っていた正面の若手は心底びっくりしたようで10センチほど飛び上がった。
それを見てすこぶる気分をよくした私は、それこそ機関銃のように、しかし冷静に反論をまくしたてた。
相手は唖然とするばかりで、フォローしようにもアワアワ言うばかり。
さらに、少し離れた席に座っていた初老の女性、最初からなりゆきを見守っていたのだろう、当意即妙に「恥を知りなさい、恥を!」と叫び、私に向かっては「こんなイタリア人ばかりと思わないでね」とひと言。

ああ楽しかった。
私が降車する駅に着いたときも、まだごちゃごちゃ言い訳をする彼らに、
「今後は気をつけるように」
と言い置いて去った。

後から考えると、「ああ、もっとこういうふうに言えばよかった」とか「あ、あれも言ったほうがよかった」など、彼らに更なる衝撃を与えたであろう気の利いた言葉を思いついたのだが、もともと母国語でさえ弁が立つとはいい難い私であるからして、外国語でとなるとなおさら難しい。
その一点だけは惜しいのだが、尊厳を保ちながら冷静に大人の態度で意見することができたのはわれながら快挙であった。

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けったいな話

今年の夏ごろイタリアを騒がせたナポリのゴミ問題は、遥か日本にまで聞こえていたそうだ。
都市景観を著しく損なっただけではなく、住宅街の道端に積み上げられ放置された生ゴミが異臭を放ったり、ところどころ火が出たりとさまざまな被害が出た。
いまのところ、ドイツに大金を払ってゴミの引き取りを依頼するなどといった暫定的な措置により、美しきナポリは息を吹き返した感がある。
しかし根本的な解決には至っていないようだ。
この問題には政治家とナポリのマフィア(カモッラ)、廃棄物処理業者などが係わっているということらしいから、その根は深く、掃い去ることは難しいだろう。

大変憂わしいことだが、やはり自分が暮らす都市で起こったことではないので、暴動寸前までいったあの時期以降は私もこのナポリのゴミ問題のことなどすっかり忘れていた。
しかし、昨日あるニュース番組を見ていて、これが決して対岸の火事ではないことが判明した。
ここローマにもなかなかけったいなごみ問題が存在するというのだ。

私たちがローマで家庭のゴミを出すときは、市が設置した大きなゴミ入れが3種、道に約50mおきに置いてあるので、そこに分別の指示に従い放り込んでいく。
いつでも好きなときに出してよいので、これは便利。
そして「分別」とは次の通り。
A:生ゴミを含む一般ゴミ
B:紙類
C:ビン、アルミ缶、プラスチック類

・・・少し大雑把な気もするが、それはそれとして、真面目に家庭できっちりとゴミを分別してきまりを遵守する人がほとんどだ。
意外に思われるかもしれないが、ローマの人も案外そういうモラルはしっかりしている。
一方、一部の不真面目な諸人の中にも、例のナポリの惨状を見て恐れおののき、これまでの心がけを悔い改めた人が多いようだ。

とにもかくにも私たちはしっかり「お約束」を守っている。

ローマのゴミ問題は、収集後の処理場にて発生する。
焼却するもの、埋め立てするもの、リサイクルに充てるもの、とここできちんと分けられ粛々と処理されるはずなのだが、本来リサイクル班に入れられるはずのビン類・プラスチック類がきれいに分けられず、そのまま両方とも埋め立て班に入れられているそうな。

これを報道したテレビ局は責任者に聞きました。
なんと、回収されたビンが割れ、それがバラバラになってプラスチックと混ざり合うので、そこからの分別が不可能だと言うのだ。

そんなことなら、どうして私たちがゴミを出す最初の段階でビンとプラスチックを分けるよう指導しないのか。
各ゴミ置き場にあと一種類、ビン用のゴミ入れを設置すればよいだけの話ではないのだろうか。

あきれてものが言えない。

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まずは食生活から

イタリアで暮らすようになってから体調がすこぶるよくなっている。
5年住んでいて、医者の世話になったのはたったの一回こっきりである。

まず顔がむくまなくなった。
日本にいたころは、寝起きの顔はパンパンで、目は必ず腫れており、なおかつシーツ痕(寝ジワ)が昼すぎまでとれなかったりと不愉快な現象に悩まされていた。
これは間違いなく食生活に起因する。
だいたい、「浮腫み」は塩分の摂取が多すぎることが最大の原因とされているが、他にも食品に含まれる添加物、はたまた飲みすぎ、寝不足などさまざまな要因があるように思われる。
お恥ずかしい話だが、私は塩辛いものが大好きなので、日本では寝る前に本を読みながらラーメンやポテトチップスを貪り食うのが日課であり至上の悦びだった。
また外食も多く、仕事帰りの痛飲過多とそれによって引き起こされる寝不足など、今考えると自らすすんで浮腫んでいたように思われるほど生活が荒れていた。

が、今では何時間寝ようが目はぱっちり二重で、輪郭も常にすっきりと引き締まっている。
外食はほとんどしなくなったし、あれほど好きだったインスタント食品というものがイタリアには存在しないので、これも食べなくなってしまった。
自分の食べるものは、素材をしっかり選び時間をかけて料理している。
お酒も夜だけ赤ワインをグラス2杯ほどたしなむ程度で、睡眠時間も十分(以上に)とっている。
これでは浮腫みようがない。

ほかにも、風邪はほとんど引かなくなったし、長年悩まされてきた胃炎が治ったことも喜ばしいことだが、なによりも今は便秘もしなくなった。
下腹がこれほど平らで引き締まっているというのは34年間生きてきてハジメテ。
これは、イタリア料理に欠かせないオリーブオイルのおかげらしい。イタリアに住む日本人のほとんどが、口を揃えて「オリーブオイルの摂取で便秘が改善された」と言うのであるからきっとそうなのだろう。
イタリアで売っているエクストラ・バージン・オリーブオイルは本当においしい。そして身体に良い。
さらにお野菜は旬のものしか出回らないのだが、それがまた大変おいしく安いので、サラダもたくさん食べるようになった。オリーブオイルと塩とレモンで。
また、車は持っていないし、交通機関は日本のそれと比べてほとんど発達していないので自然と歩くことが多くなったことなども内臓の働きを活発にする一助となっているはずだ。

こうして考えてみると、イタリアにいて何をするにも時間がかかりいちいち不便に感じていたことが、実は身体にはよい影響を与えていることがわかる。
まさに「身をもって」得た結論だ。

利便性の追求もよいが、そのせいでいつの間にか人が健康を害し、医療費が嵩んでいくとすれば、これは日本という国にとってまずいことなのではなかろうか。
「メタボ解消」というのは最近よくいわれていることらしいが、忙しい時間を割いてスポーツしたり酒を減らしたりするよりも、まず根本的な食生活から変えてみてはどうだろう。

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語尾と人称

誰だったかどうしても思い出せないのだが、とにかく日本の高名な作家が書いたエッセイの中に、知り合いのイギリス人でこれまた高名な英文学者に日本語の語尾の始末について説明した時のこと書かれてあり、これが大変印象にのこっている。
この英文学者は、日本語の話し言葉は語尾を少し工夫するだけで、話し手の性別、だいたいの年齢、個性、感情などが巧みに表現できることを知り「それはたいへん便利だ」と甚だ羨ましがっていたというのである。

たとえば、『昨日の晩何度も電話したのに、あなたでなかったわね』という会話文なら、主語がなくても話し手は女性であること、なんとなく怒りを含んだ湿度の高い言い草であることなどがわかるので、いちいち『と彼女はうらみがましく言った』などと続けなくてもよい。
『君、そんなことではいかんよ』という場合の話し手は、恐らく社長か役員クラスの初老の男性が、そっくりかえって部下を叱っている情景が想像できる。

日本語とはなんと拡がりのある豊かな言葉だろう。
私が知る限りでも英語やイタリア語ではこいうったニュアンスを出すことは文法的に不可能だ。

ついでに、日本語の人称代名詞のバリエーションについても触れておきたい。
一人称だけを見ても「わたし」「わたくし」「おれ」「僕」「わて」「わし」「おいら」「拙者」「我輩」「朕」「おいどん」「僕ちん」「あたし」「あちき」など、今思いついただけでも書けばきりがないほど出てくる。
英語では「I」のみ、イタリア語でも「IO」のみである。
二人称はどうか。
「あなた」「あんた」「君」「おまえ」「おまえさま」「てめえ」「あなたさま」「貴殿」「貴兄」「おたく」「おぬし」「おまさん」「きさま」「ワレ」・・・ああ、止まらない。
しつこいようだが、英語では「YOU」、イタリア語では「TU」の一語に尽きる。ちなみに英語では二人称複数「あなたがた」さえ、「YOU」である。なんたることか。

人称代名詞の豊富さでは日本語の右に出るものはないのではないだろうか。
小説などではこうした人称の中から登場人物に合ったものを選び会和文に挿入するだけで、かなり表現が膨らむ。

ノーベル文学賞は、もちろん英訳されたものをして審査されるのだろうが、日本語のこうした特徴的な表現技法に忠実に翻訳することは不可能に近い。
贔屓目ではなく、日本には偉大な文学作品が多数あるというのに、これまでこの賞をとったのは川端康成と大江健三郎の二氏のみである。
この賞をとることが最高の栄誉かどうかは意見の分かれるところだろうからそれはよしとしても、最低限、ひろく世界に日本のすぐれた文学を知らしめたいと思っても、こういった表現の美しさが他言語で表現されないのはなんとも口惜しい。
仕方ないけれど。

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