信用について

信用、この目に見えないもの。
しかし、それなしでは人間関係も商売も成立しない。

あるものを信用するかどうかの判断基準は人それぞれであるし、設けるハードルの高さもまた人それぞれだ。
ともかく、限られた情報をもとに、国家を、人を、あるいは企業とその商品を、そして何よりも手に入れた「情報そのもの」を信用してもよいかどうか、各自の「知性」、言い換えれば「見る目」を駆使して判断しなければならない。

人間、一度「信用してもよい」と判断したものに裏切られると、ショックを受けたり腹を立てたり悲しみにうち沈んだりする。
だが、「このものを信用する」と決めたのは当の本人であることをまず思い起こさなければならない。
裏切られた場合はまず、自分の「見る目のなさ」を反省し、次に同じ失敗をしないよう学習するべきだろう。
内省なくして相手を責めるだけでは、未来においてまた臍を噛むような思いを味わうことになろう。
被害者意識は私たちにいかなる福音も与えない。
同情されることはその人にとってなんの得にもならないのだ。

数年前まで信用大国であった日本。
日本は信用の化身であった。
これは言祝ぐべきことで、もちろん誇ってもよいと思う。
しかし、そのことは私たちを少々白痴化してしまったようにも思う。
私たち日本人は、赤子のように何の疑いももたず無邪気に相手を信用し、その身をあずけてしまうようになってしまったのではなかろうか。
要するにハードルが低いのである。

イタリアに来たばかりのころ、同じ語学学校に通っていた日本人の若い女の子が、ディスコで知り合ったモロッコ人の家にのこのこついて行き、彼とその仲間に輪姦されそうになった、ということがあった。
幸い、彼女は必死で逃げ帰り事なきを得たのだが、私は後日、本人からそうしたいきさつを聞かされて、呆れはしたものの、とても「かわいそうに」と同情する気にはなれなかった。
海外でそんな危険なことを平気でする彼女の頭の中身が、幼稚さが信じられなかった。
とにかく、また同じような危険な目に遭わせないためにも、年長者としてしっかり「あなたが悪い」と言い聞かせたが、ショックの覚めやらぬ彼女をただ怒らせる結果になってしまった。残念なことである。

同志の心が変節した、伴侶に浮気された、金庫番に金を使いこまれた、省庁の汚職が発覚した、一票を投じた政治家が公約を守らなかった、食品の偽装が明るみに出た、銀行が手のひらを返したように金を貸してくれなくなった、ズバリ詐欺にあった、スリにあった、殺された・・・と、こうしたことが今は日本でも日常茶飯事となっている。
非情に憂わしいことだが、これはむしろ「もっと見る目を鍛えろ」「自分の頭で考えろ」「危険を察知しろ」という、白痴化した私たちに対する警鐘であって、まだ取り返しのつかない最悪の事態には至っていない。

まだ賢くなるチャンスはある。

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